村上春树-《村上さんのところ》

翻译 | 《村上さんのところ – 不是作为被害者,而是体验者活着》

2017年5月20日

被害者ではなく、体験者としていきる

不是作为被害者,而是体验者活着

質問:

今日で村上さんへの質問が打ち切りになると思うと、ちょっと寂しいです。最後に、村上さんにお伺いしたいことがあります。

「アンダーグラウンド」に書かれていた、ある駅員さんの話の中に、自分はサリン事件の被害者ではなく、体験者だと思うようにしている、というようなことをお話されていた方がいらっしゃいました。

私も学生の頃、ついこの間まで友達だと思っていた人に「早く死んで欲しい」とか言われてずっと部屋に閉じこもって、ご飯も食べずに泣いてばかりいた時期がありました(今はすっかり元気です)。

その時、たまたまその駅員さんの話を読んで、私は「自分を被害者だと強く思うと、自滅するのではないか」ということに気付きました。だからあの駅員さんは、自分を体験者だと思うようにしているのではないか、と。

自分を被害者だと強く思っていた時期は、世を恨み、相手を恨み、卑屈になって、人も離れていきました(なんで自分ばっかり、とその頃は思っていたのですが、実際には、自分ばっかりではなくて、みんないろいろあるんですよね)。そのようにして自滅していくのかな、と。なんだかうまく言えなくて、すみません。

相手も悪いところがあるし、自分も悪いところがあったな、と考えられるようになってから、ちょっとずつ元気になっていきました。

村上さんは、その駅員さんはなぜ被害者ではなく、体験者だと考えるようにしていたのだと思いますか。

ぜひ、村上さんの解釈をお聞きしたいです。

想到今天向村上先生的提问要结束了,有点寂寞。最后,我有想向村上先生提问的问题。

在《地下铁》里写到,在某位站务员的话里,有提到要去想自己不是沙林事件的被害者,而是体验者这样的话。

我也曾有过在还是学生,前不久的时候被认为是朋友的人说「希望你早点死」而一直把自己锁在家里,一点也不进食只是哭的时期。(现在是完全健康的)。

那个时候,碰巧读到那个站务员的话,我意识到「若是强烈地认为自己是被害者,就相当于自我毁灭」。所以,那个站务员就认为自己是体验者。

把自己强烈地看成是被害者的时期,憎恨世界,憎恨对方,变得卑躬屈膝,与人隔离(为什么只有我自己,虽然那时候是这样想的,实际上,并不只是自己,所有人都有各自的问题)。这样做的话就会自我毁灭了吗。不知怎的说得不好,请见谅。

对方也有不好的地方,自己也有不好的地方,自从自己能这样想之后,一点点恢复健康。

村上先生觉得为什么那个站务员认为自己不是被害者而是体验者呢。

务必想听村上先生的解释。

回答:

被害者というのは一般的にいえば、「自分には何の責任もないのに、たまたま災難が降りかかってきた」という人のことです。だから「どうしてこの私に?」という疑問が先に立ってしまいます。それで深く混乱し、傷ついてしまうこともあります。でもその駅員さんは自分を「被害者ではなく体験者」と見なすことになって、「自分はこの世界に生きているという責任を、たまたま自分なりに分担したのだ」という風に、いわば前向きにお考えになろうとしたのでしょう。僕はそのように解釈しています。それは「災難が降りかかってきた。ひどい目にあった」と受動的に捉えるか、「心ならずもではあるが、自分が災難を引き受けることになった」と能動的に捉えるかの違いだと思います。

あなたもできるだけいろんなことを能動的に前向きに捉えて、元気に生きていってください。

一般说到被害者,都是「自己一点责任也没有,只是碰巧灾难降临了」。所以首先就会有「为什么是我?」这种疑问。于是就陷入深入的混乱,受到伤害。但是那个站务员能把自己看成「不是被害者而是体验者」,以「自己在这个世界上生存的责任,碰巧要分担属于自己的部分」这种样子,换言之就是积极向前的思考。我是这样解释的。我觉得这是「灾难降临了。我倒了大霉」被动地理解,还是「虽然迫不得已,不过自己承担灾难」主动地理解的不同。

请你也尽可能主动地积极向前地理解各种事情,健康地生活下去。