朝吹真理子


特地建一个“朝吹真理子”的页面,是因为近来阅读她的随笔集《抽斗のなかの海》获得许多启发,而这些启发有些零碎,繁杂,有必要记录下来好好梳理一下。她笔下的世界来自另一个国度,还有她生活和成长的轨迹,前者我或许还可以自我涉猎,但后者,我只能凭着她的点滴记录去摸索和体会。在她身上,天赋和热爱的自然而然,仿佛是两条并行的平行线,在她需要写作的时候,从平行线的两端分别洒下慧思和敏锐,让人无端遐想。


*ブルーシート

ブルーシート
  • ブルーシートほど、うつくしいものはないと思う。その、吊した青い面に、日々、イメージを括りつけていた。
  • ブルーシートは、この世でいちばんうつくしいもの。完璧な青。目にとびこむ青に、あらためて惹かれた。

——「この世でいちばんうつくしいもの」より


*抽斗の海


「抽斗の海は、時間の溶けた、方角のない海で、あらゆる作品が信号旗Kをかかげて浮かんでいる。そこにじぶんが書いたものを投げる。そうすると、武満徹の「時間の園丁」に届いたり、ダムタイプの古橋悌二に届いたりする気がする。海は広いから、船がすれちがうことは稀だけれど、もしかしたらずっとすれちがわないかもしれないけれど、いつか交信できるかもしれないと信じている。」


*夫婦の話

  • 待ち合わせをした相手が本を読んで待っていたことを知るとほんの少し安心する。人を待つことで生まれた時間の余白を楽しんでいるように思える。

*日々のこと

  • ビニール傘は、とうめいな膜に包まれながらも世界にひらかれているという、あの、あいまいな距離が私は好きだ。
  • 昔から、火をみていると孤独な気持ちになる。
  • ギャラリー小柳やメゾンエルメスをみる。POLAに入っている茶寮で本を読む。和光のチョコレートや木村家のあんぱんを買う。
  • あたりにいるひとびともみな、一時銀座で過ごしているだけの来訪者の感覚であることが、気ままでゆったりとしていて心地よい。とりとめもない時間を過ごしていると、憂きことからも一瞬逃れられる気がする。
  • 家族それぞれ「書く」ことを考えているときは、うわの空になっている。うわの空は、生活のなかでもっとも尊重されるべきことである。そうした無言の取り決めが家族のあいだで昔からなされている。
  • うわの空のよろこびを、母のすがたをみて、おぼえた。

*読書の話

  • 寺田寅彦の「茶碗の湯」という小さな美しいエッサイがある。手のひらにおさまる茶碗からのぼる湯気という小さな現象から、雲の生成の話になり、この地球上で起こる季節風の大きな原理と話が繋がってゆく。
  • 武満のことばに心がなだめられる。武満の遺したすべてのことばは、いつまでもわき続けるとうめいな青い水。朝陽をうけながら、その水に浸かり、ことば(と肉体)の制限から放たれたい。
  • 小説に、読み取るべきことなど本来はない。ただ読みたいように読む。本を閉じた瞬間に書かれてあったことなどすっかり忘れてしまってもよいのかもしれない。
  • 自由であるからこそ、読書はかえがたい歓びとなる。
  • サンタぐは欠如をも直視し、切実に書く手をすすめる。欲望しながら、その欲望そのものを認識している。認識が官能であるとういことを私はさんタグによって知った。
  • 単純化しないこと。複雑さをそのまま考察して描写すること。それをさんタグから学んだ。
  • 春が憂鬱だと思うのは、ちいさいころから父親に「詩人にとって春は憂鬱な季節だ」などといわれてきた刷り込みだと思う。

*作家への賛美

  • 古井由吉の小説は、かつて書かれた作品という実感がない。いつまでも読んだときの感覚が過去のものとならず、小説のなかの「現在」はいつまでも「現在」のままある。
  • 澁澤は、小さな迷宮をたくさん書いている。『少女のコレクション序説』にも「宝石変身譚」を書いているけれど、石、ウニ、花、胡桃、ドングリ、自然の博物誌をひもときながら、てのひらにおさまるもののなかに宇宙があることを澁澤は教えてくれた。
  • 金井美惠子が読んでいる本へと誘われて、私は、「落ちつける場所」をひらいたまま、吉田健一をさがしに、本棚にむかう。吉田健一を読んでいると金井美惠子の小説が読みたくなって、また本棚にむかう。ことばがことばを誘惑する。読んでいるうちに、私自身の記憶か想像か、判別し難いイメージまで、思い出されるようにひろがり、しばらく、読むことが遅延したりする。ことばの筋のむこうには、無数の扉があり、つぎからつぎへと、扉をあけて、のぞいてゆきたくなる。ことばは永遠に尽きることなく、分岐と、増殖とを繰りかえし、いつまでもおわりがない。読書をしている時間、小説のなかの時間、すでに書かれた、あるいは、まだ書かれていない小説にむかって、いくつもの時間が繋がっている。
  • 金井美惠子は、書見台にむかって、背筋をのばして、しかつめらしい顔をして読む、ことはしない。ベットの中でくつろいで、読む行為そのものを愉しんでいる。

*作家のアドバイス

古井:例えば昼下りまでの時間を書く時、これは小説の場合、その間に出来事がなけりゃいけない。外からのものでも内部のものでも出来事があったこそ、それに沿って書いていける。でも出来事のない、無事の時間ね、その無事の時間を摑んでみたい気持ちがあるんです。無事の時間を摑むと、異なった時間がうらはらに現れ出るんですね。ぼくらが時間を生きたと感覚するのは何か事があるとき何ですね。事がないと死んでるのね、時間が。それではしかしちょっと合わないなと思ってね、事がない時の方が多いんだもん。事がない時間というのをないが白にしすぎてると思うのね。昔は事がなくても共通に時間をこしらてくれたわけ。ひるにナルトサイレンがナルトか、暮になると豆腐屋がくるとか、日没には鐘が鳴るとか。共通の時間がなくなって時間がそれぞれ個人に委ねられると、事のあるときだけ時間を感じて、事のない時間がおろそかになる。

吉増:それはひじょうにいい話だな。それを聞きながら一つ想いでしていたんだけど、古井さん、ちょっど欧州から戻ってカフカ論を書かれたでしょう。それを今思い浮かべだけど、カフカの有名な「変身」という作品があるでしょう。あれはまあいろいろ言われるけどぼくが一番好きなのは終わり方が好きなんですね。終わりは、虫になった人が死んじゃってから何ですね、それでまああほっと安心してみんなで郊外電車に乗ってピクニックに行きますよね。あそこがいま古井さんがおっしゃたのと同じで、カフカはやっぱりすごいなあと思うのは、あそこは何でもない普通の時間を生かすでしょう。あれはやっぱり本当に、あいつと言ったら悪いけれども、いいところですよね。

古井:あれは面白いんですよね。事がある内は時間が流れないんですよ。不穏当な言い方だけとも、事が片付くと、つまり虫が死ぬと時間が流れて、その証拠にハイキングの電車の中で親たちが娘を見て、ああそろそろ結婚が近いなあ、と初めて時間を感じるんです。

吉増:そうなんですね、だから確かにカフカがあの作品がうまくいって好きだった理由がわかりますね。残していいといったのね。

吉増:無事と有事と逆転させた人ですよね。事がある時は時間が流れない、事がなくなってから時間が流れる。まさにそうですね。