日文文章

文 | 「ぐっすり眠るの条件」

2017年12月5日

连续写了3篇日文文章后,突然感慨许多。写第一篇的时候,纯粹是因为那天脑袋里面的确不自觉地有很多日文的词句冒出来,所以顺着心情,很快就写出来了;然后第二篇,突然想起了自己真正第一次接触日文的时间,的确是因为当时看了在香港翡翠台播的《女婿大人》,挺了那首插曲后而对日文有印象的;到今天,是因为看了一篇关于如何获得好睡眠的文章而写下来的。
每次发布文章后,我都会重新读很多遍,看看哪里不太通顺,或者那个词打错了,或者那个地方的语法用得不对。因为在刚好写完的瞬间重读,也不可能发现所有的问题,所以发布后重看,或者隔天重看,才能看到确切的问题。
在第一篇文章里,我写了这么一句话“日記の内容は一応考える必要がありますが、日記の長さは自由のままに書き上げるというのは十分です。” 意思是“日记的内容暂且有必要考虑一下,但是日记的长度就随心而写就足够了”。这或许就是我现在写日文文章的初衷。我没有办法长篇大论地写,也不可能在文章里谈论很深奥的问题,反而是,我平常不会用中文或英文写的东西,恰好可以当成练习写日文的材料,譬如日常的生活,个人的习惯,对一些小事小事物的看法。这么一想,感觉轻松多了。不用太多,没有负担,随心而写就好了。
当然,在字里行间,也会有一些用得不对的词句或语法,这些也权当是练习而得到的经验。
但愿这个习惯,也正如今天这篇文章写的“睡眠的习惯”一样,被我应用起来。


今日の朝、私はどうすればよく眠れますかという文章が読みました。
私の眠る習慣というと、基本的に変わりません。朝はいつも同じの時間に起きると、夜も同じの時間に眠るということです。ただ、一度遅れて眠ると、翌日の朝起きたあとに、眠きは絶対消えにくいです。だから、私はできるだけ徹夜しません。年が増えるというわけもあるかもしれませんが、でも、自分もだんだん徹夜に馴れていません。前と比べて、今の眠る習慣はもっと定常だと思います。今は、朝六時に起きると、夜十一時に眠りになっています。
その文章の中に、キーポイントというえば、眠れないときも、いつもと同じの時間に寝れにいくということです。なぜこれは大切ですかと、私はそう思うんですけど、さまざまな原因で眠れないでも、身体は休憩が必要ですが、だから、夜十一時になると、身体がもう疲れたんです。目を閉じたままに、じっとベッドに横になっていると、身体はリラックスできます。それで、夜はあまり眠れないとしても、朝になると、いつもと同じの時間に起きて、働いて、食べて、身体は少しずつもともとのようになっていきます。これは眠るの良性循環だと思います。
もう一つキーポイントがあります。人はなぜ眠れないですか。眠りたいときに、突然いろんなことが頭の中に浮かび上がって、自分はそれをひとつひとつ検討のように考え始めて、でも考えれば考えほど眠れないということはあります。あるいは、昼間に、十分に身体が動かさないで、仕事はちゃっとしないで、また休憩が多くて、これらのせいで、眠るの時間になっても、眠りそうな気持ちがないということもあります。だから、働きが重要です。むしろ十分の働きが睡眠の保証です。
そういえば、眠れない時に、自分が働きに行かなくならないということです。たとえば、掃除をして、洗濯をして、家事の整頓をして、これらの働きを通じて、身体が動かされて、いつの間にか、疲れさも訪れるかもしれない。そうなると、夜はきっと眠れます。もし昼間に何もしないでぶらぶらしていって、夜になって、眠りにくいかもしれません。
私にとって、これは眠るか眠れないかという問題ではありません。もっと深い意味が含んでいます。十分に仕事をしたからこそ、自分はいい睡眠を取っていきます。だから、私は仕事の意味をもう一度ちゃっと考えなければならない。
一日の中に、私は何をした、何を考えた、何を得った、それらの意味が大事です。働きは睡眠の直接原因ではありません。働きのうちに、どうのような習慣が形成されましたか、またどんな習慣の影響で自分がどのような行動を取った、というほうがいちばん大事です。
この文章を読んだと、私は自分の働きと睡眠習慣の関係についてもう一度細かに考えることができます。確かに、そうだようね。
じゃあ、しっかりと働きが忘れないように。