村上春树-《村上さんのところ》

翻译|「《村上さんのところ》- 教师的进退两难」

2017年4月4日

教師のジレンマ

教师的进退两难

質問:

私は中学校の教師をしています。毎年数回ですが「国語の問題で、作者の言いたかったことはなんですかってあるけど、何で作者じゃない先生に答えがわかるんですか?」と生徒に聞かれます。私は教科書通りの説明をして、それでも納得のいかない生徒がいたら「一般的にはそうだと考えるのが適当だからだよ」と誤魔化してしまい、そしてそれに対して、いつも罪悪感を感じてしまいます。

「作者は何を意図してこの段落を書いたのでしょうか?」とか、「XXがXXだと思ったのはなぜでそうか?」とか、そんなの本当は私にもわからないのです。

おいしいコーヒーをいただいているときに、そのコーヒーがなぜおいしいのかの説明は無い方がコーヒーの味を楽しめるように思うです。

村上さんの本を読んでいても、同じ感覚に陥る事がしばしばあります。

「なぜかそうしなくてはならないとおもった」というような表現に説明はいらないと思うのです。説明がないから面白いと感じるように思うのです。

でも、職業上、問題があるのならそれに対しての答えを示し、更には説明する必要があるのです。ですので、どうにかして自分の中で折り合いのようなものを付けたいのです。

村上さんは執筆された作品の言葉の端々に、やはり何かしらの意図を持っていらっしゃったり、伝えたい事柄を含ませていらっしゃるのですか?それとも、文章や言葉の美しさを重視していらっしゃるのですか?

何でも結構です。どんな感覚なのかを教えてくださいませんでしょうか?

我是中学的教师。每年都会好几次被学生问到「国语的问题理,有作者想说的话是什么呢,为什么不是作者的老师却知道答案?」。我是根据教科书做说明,但即便如此若仍然有无法接受的学生,就会说「一般性地这样思考是适当的」掩饰过去,对于这个,总是会感受到罪恶感。

「作者是出于什么意图写这个段落的?」或者,「为什么觉得XX是XX」,那个真正原因我也不知道。

啜饮美味的咖啡的时候,我觉得无法说明这个咖啡的美味的人才能享受咖啡的味道。

即便是读村上先生的书,偶尔也会陷入同样的感觉。我觉得不需要「为什么非这样做不可呢」这样表现地说明。正因为没有说明才感到有趣。

但是,职业上,若有问题就要对此示范回答,更进一步的说明是有必要的。所以,无论如何,自己的内心会想要达成类似妥协的东西。

村上先生执笔作品的语言的衔接,是不是果然抱着什么意图而写的,包含着想要表达的情况?还是说,重视文章或者语言的优美?什么都不要紧。请告知是哪种感觉?

回答:

百人の読者がいれば、そこには百の解釈があります。どれが「正解」と決める根拠はどこにもありません。でもそんなことを言い出したら、先生は困ってしまいますよね。試験の採点のしようもありませんし。

僕が大学で教えるときは、みんなでひとつの小説を読み、そこからいくつかのポイントを取り上げ(そのポイントは僕が選びます)、それについて学生一人ひとりにそれぞれの解釈をしてもらい、それをみんなで「ああでもない、こうでもない」と時間をかけて討論することにしています。実にいろんな意見が出てきます。それについてみんなで語り合っているうちに、だんだん「落としどころ」みたいなものが見えてきます。僕はあまりわきに逸れるないように、流れを自然に誘導していくだけです。これはなかなか面白いプロセスですよ。もちろんみんなが積極的に発言しないと成立しないわけだけど、僕の持ったクラスはみんなにぎやかだったから楽しかったです。

自分の小説をテキストにして教えてことはありません。恥ずかしいし、説明するのはかなりめんどくさそうだから。

有一百个读者,就会有一百种解释。哪里也没有决定哪种是「正解」的根据。但是如果说这句话,老师就会很困扰。也没法做试验的记分。

我在大学教授的时候,所有的人读一本小说,从那里提取几个要点(我选择那些要点),根据那个每个学生做出各自的解释,所有人慢慢地谈论「那个也可以,这个也可以」。实际上出现了各种意见。在所有人就此讨论过程里,渐渐地能看到类似「圈套的地方」的东西。我基本不会偏离正轨那样,只是自然地引导流向。这是相当有趣的过程。当然所有人都必须积极地发言才能成立的,不过我担当的课室的学生都活泼开朗所以很开心。自己的小说不会作为讲义来教授的。因为不好意思之余,说明也相当麻烦。