村上春树-《村上さんのところ》

翻译|「《村上さんのところ》- 翻译本应随时代更新」

2017年4月5日

翻訳は時代とともに更新されるべきなのか

翻译本应随时代更新

質問:

数年前、大学の学園祭に柴田元幸さんがいらっしゃいました(「サリンジャー戦記」)にサインをいただきました。

その際も質問したのですが、翻訳のアップデートの意義とは何なのでしょうか。

例えば、古い訳語の更新とするならば、同時に本編の方のアッブデートも必要になるのでは、と思います。しかし、例えば夏目漱石の純粋なアップデートって無いですよね。新たな翻訳を重ねたアップデート版で文学的な価値は変わるものなのでしょうか。

柴田さんは、原理的に確実な間違いのない翻訳は無いのだから、と答えていた様に思います。

村上さんが翻訳する際に気をつけることは何でしょうか。そして、その際は定訳となっている日本語版は気にかけますか。

几年前,在大学的学园祭里柴田元幸为《塞林格战记》签名。

那时候也问了,翻译的更新的意义是什么。

例如,若把古旧的译语更新了,同时地,我觉得正篇也有必要更新。但是,譬如说夏目漱石的纯粹的更新是没有的。新的翻译重复更新,文学的价值也会改变吧。

柴田先生回答说,原理上确实正确无误的翻译是没有的。

村上先生在翻译的时候注意的是什么呢。还有,会担心那个时候的定译变成日文版吗?

回答:

オリジナル・テキストのアップデートは不要です。それは時代性を含んで成立している者ですから。言葉が古くなっても、表現が古くなっても、事情がかわっても、人の考え方が変わっても、それは普通のオリジナルとして、永遠の定点として存在します。それが芸術というものです。

しかし翻訳は時代とともに更新されていく必要があります。なぜなら翻訳は芸術ではないからです。それは技術であり、芸術を運ぶためのヴィークル=乗り物です。乗り物はより効率的で、よりわかりやすく、より時代の要請に添ったものでなくてはなりません。たとえば古い言葉は更新されなくてはなりませんし、表現はより理解しやすいものに変更されなくてはなりません。それから、以前にはわかりにくかった様々な情報が、今ではかわるようになったということもあります。

例をひとつあげますし、フィッツジェラルドの某長編小説の旧訳に「フランス大旅行団」という言葉が出てきました。目の前を「フランス大旅行団」が通り過ぎていく。僕はこの「フランス大旅行団」が何のことだかわからなくて原文をあたってみたのですが、なんとこれが「Tour de France」なんですね。シール・ド・フランス、もちろん自転車レースです。シール・ド・フランスの車列が目の前を通り過ぎていったのです。この翻訳がなされた当時の日本では、シール・ド・フランスが何かを知る人はあまりいなかったのでしょう。だから翻訳者は適当に想像して「フランス大旅行団」と訳してしまった。今ならまずありえない間違いです。

チャンドラーの古い訳書に、グレープフルーツを「アメリカざぼん」、ブラジャーを「乳バンド」と訳しているものもありました。これはいくらなんでも更新しないとまずいですよね。

そういうことが他にもたくさんあります。

優れたオリジナル作品は古びませんが、翻訳は古びます。どんな翻訳だって、多かれ少なかれ古びます。僕の翻訳だっていつか古びます。翻訳は原理的に更新されることが必要なのです。

原创文本是不需要更新的。因为那是包含时代性而成立的。即便语言古老,即便表现古老,即便事情改变,即便人们的思考方式改变,那个是作为普通的原创,作为永远的定点而存在的。这就是艺术。

但是翻译是有必要跟随时代而更新的。究其原因翻译不是艺术。那是技术,搬运艺术的载体=乘坐物。必须比乘坐物更有效率,更加易于理解,更能遵循时代的要求。譬如说必须要更新语言,必须要让表现变更成更加易于理解的东西。这样,以前难以理解的种种情报,现在也能变得能够理解。

举一个例子,菲茨杰拉德的某长篇小说的旧译里有出现「法国大旅行团」这样的词。眼前经过「法国大旅行团」。我不知道这个「法国大旅行团」是什么所以翻看原文,怎么是「Tour de France」啊。「Tour de France」,当然是指环法自行车赛。「Tour de France」的车列在眼前经过。在当时没有这个翻译的日本,没有人知道「Tour de France」是什么。所以翻译者做了适当的想象而翻译成「法国大旅行团」。现在的话大概是不可能有的错误。

在钱德勒的旧译本里,也有葡萄柚译成「美国柚子」,乳罩译成「乳带」。这种无论如何不更新是很糟糕的。

这种事情在其他地方也有非常多。优秀的原创作品不会变旧,但是翻译会变旧。不管是什么样的翻译,多多少少都会变旧的。我的翻译也会有一天变旧。翻译需要原理上的更新。