村上春树-《村上さんのところ》

翻译 |《村上さんのところ》- 从那天起二十年

2017年2月1日

因为《1Q84》,我才了解这件事情。

一件事物,只有当知道得更多,才能贯通本身已经知道的,然后再从不知道的那个方向出发,深入了解,层层递进。

有些事物是相通的。

无法言语或不适合说更多的事情,只能自己消化。


あの日から二十年
从那天起二十年

質問:

こんにちは。僕は今大学生です。僕はいままで、自分でも嫌になるくらいなさけなくて恥ずかしい失敗をいくつかしてきてしまいました。僕はそのことを思うと、本当に嫌になります。村上さんの「約束された場所で」のホウム真理教の信者の方の話を読むと、胸が痛くなることがあります。この本を読むたびに、人の失敗(または悪)はその人の容量を超えて自分にのしかかってしまうものなのだと思います。それは本当に恐ろしいことだと思います。
そこで質問なのですが、この本の河合隼雄さんとの対話の中で「悪がシステム単位のものか、個人単位のものかまだわからない」ということを村上さんが仰っていたと思うのですが、今はというふうに考えておられるでしょうか。また、もし悪を犯してしまったら、その人はそのあとどういう風に生きていけばいいのか、その人にとって人生とは何だったろうかということを僕は考えるのですが、村上さんはどう思われますか。
こういったデリケートな問題に対して、もしかしたら僕の文章が軽薄なものになっているかもしれませんが、その時は申し訳ありません。

您好。我现在是大学生。到目前为止 ,我有过几次连自己都嫌弃的可悲的令人羞耻的失败。我想到那件事情,就会非常讨厌。读了村上先生的「在约定的场所」的奥姆真理教的信者们的话,痛心不已。每次读这本书,都觉得人类的失败(或者说罪恶)是超过了这个人的容量而把自己压垮后导致的。这真的非常恐怖。

这里的问题是,在这本书中与河合隼雄先生的谈话里面村上先生说过「罪恶是系统单位,还是个人单位目前还不清楚」,现在是怎么考虑的呢。还有,如果犯罪了,这个人以后要怎样生存才好呢,对这个人而言人生会是什么呢,这些是我的思考,村上先生是怎么想的呢。

面对这么敏感的问题,也许我的文字会显得轻率,抱歉啦。

回答:

ホウム真理教の一連の事件については、かなり長いあいだ細かく取材し、それとつきあって生きてきたので、僕の身体の中までその空気が染みついてしまっているような気がします。心は重いというか、それについては簡単には語れない部分があります。被害者のみなさんについても、また罪に問われている加害者の側についても。もちろん彼らが罪を犯したことは事実だし、それを死刑を償わなくちゃならないのは確かなんですが、法廷で彼らが死刑を宣告されるところに立ち会うと、やはりしばらくは言葉を失うほど落ち込みます。たぶんそれは、彼らが犯罪者には見えないからだと思います。

彼らはどう見ても、僕らのすぐそばによくいる人々なのです。でもそれと同時にもちろん、彼らのせいで愛する人を失い、人生を狂わされた多くの人々を目にしてきた僕としては、安易に同情するわけにはいきません。

そのへんのジレンマが僕の口を重くされます。

今のところ僕にいえるのはそれくらいです。すみません。サリンじけんから二十年になります。でもあの事件について考えるときの心の重さはちっとも変わりません。

关于奥姆真理教的一连串的事件,在相当长的一段时间里进行细致的取材,因为与它交织着生活,感觉我的身体里面至今好像仍沾染着那股空气。内心的沉重,或者与之相关的无法言说的部分都是有的。不管是对所有被害者,还是被问罪的加害者的那一方。当然他们犯罪了这是事实,虽然他们确实只能用死刑来偿还,但在法庭现场看到他们被宣告死刑的那个时候,仍然有一阵子如失去说话能力那般失落。大概那是因为感觉他们不见得是犯罪者吧。

无论怎么看待他们,都是我们周围存在的人。但是同时,当然,看到因为他们而失去心爱的人,人生被打乱的很多人,作为我,是不能轻而易举地同情。

那种进退两难使我无法言语。

现在我能说的只有这些。对不起。沙林事件到现在已经二十年了。但是每每思考关于那件事时,内心的沉重丝毫没有改变过。