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文 |「言叶之露是あはれ」

2025年7月16日

赏《古今和歌集》—— 第五篇

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春歌ー70

よみ人知らず「待てといふに散らでしとまる物ならば何を桜に思ひまさまし」

(「待て」と言った時、もし散らないでとまるようなものならば、いったい何のために、桜をますます愛するようになったというべきでしょう。散るからこそすばらしいのです。)
(「等等」,若是这么一说,花就不落的话,那么,究竟是为什么越来越爱樱花呢。正是花落才是它美的真意。)

——若说我喜欢和歌的什么,这种与景物对话的场景始终是我中意的,仿佛世间万物皆是「我」的知心人一般。

春歌ー76

そせい法師「花散らす風のやどりは誰かしる我にをしへよ行きてうらみむ」

(桜の花を散らせてしまう、あの風の宿る所を誰か知っているだろうか。もし知っていたら私に教えておくれ。そこへ行って恨みごとを言おうと思うから。)
(樱花落完了,谁知道风居住的地方在哪里呢。若是知道的话麻烦告诉我。我要去那里说说我的恨意。)

——「風の宿る所」,风居住的地方,听起来优雅且温柔。每每在和歌里读到「宿る」这个词,也会感到无比暖心,它代表一处所在,一种安放。无情的风把樱花都吹落了,好不甘心啊。

恋歌ー552

小野小町「思ひつつぬればや人の見えつらむ夢と知りせばさあざらましを」

(思い慕いながら寝るので、あの人が夢に現れたのであろうか。あの人が思っていてくれるゆえに見る夢ではないが、それでも、うれしい。夢だと知っていたら、いつまでもさめないでいたものを。)
(想着对方入睡,那个人就会在梦里出现吧。尽管不是因为对方想着我才在我的梦里出现,可我还是高兴。一旦晓得这是梦,就希望,梦久久都不会醒过来。)

——在此能看到,遥远的从前,也有这种说法——「因为对方想着我才会在我的梦里出现」。可即便不是这样,是我想着对方,对方才会出现,也很美好。

恋歌ー561

紀とものり「よひの間もはかなく見ゆる夏虫に迷ひまされる恋もするかな」

(宵のうちから、火に飛び込んで死んでしまいそうに見える夏虫よりも、いっそ自分を失ったような激しい恋をすることであるよ。)
(比起从夜晚开始,就要扑进火里死去的夏虫,索性自己谈一场连性命也可舍去的疯狂恋爱吧。)

——据书中注释,这里的夏虫可能是飞蛾(飞蛾扑火),也可能是萤火虫。

雑歌ー940

よみ人しらず「あはれてふことの葉ごとにおく露は昔をこふる涙なりけり」

(「あはれ」という言葉の一つ一つに置く露は、昔を恋い慕って泣く私の涙であるよ。
(在「あはれ」这个词上留下的一滴一滴露珠,皆是我恋慕昔日而留下的泪珠。)

——这首和歌,让我惊叹。看起来简单,可它真的很美妙。首先,「言葉」里「葉」与叶子的「葉」是双关语;接着,「あはれ」是一个表达情感的万用词,任何情感都可用「あはれ」来表示,所以多少露珠,一滴滴落在上面都可盛载;再者,露珠是我恋慕往昔的泪珠,恰恰体现了「あはれ」的情怀。和歌里的情愫是一重重叠加的,在我看来,可谓是惊艳之作,虽然是无名氏的。往后,当我想起「あはれ」,都会想起这首和歌。


注:文章里的和歌与日文译文皆出自「《古今和歌集》片桐洋一 訳・註」。