赏《式子内親王》和歌第二篇
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夏歌ー12
式子内親王「秋風を雁にやるぐる夕ぐれの雲ちかきまでゆく蛍かな」
(秋風が吹いていると雁に告げに行くのであろうか。夕ぐれの雲近くまで高くのぼっていく蛍であることだ。)
(黄昏时分,那些飞到云际一般高的萤火虫,是为了跟大雁说秋风吹来了吗。)
秋歌ー13
式子内親王「うたたねの朝けの袖にかはるなりならす扇の秋のはつ風」
(うたたねから目覚めた早朝の袖に、吹く風が変わったようだ。使い鳴らして慣れ親しんだ扇であおぐ風が、秋の初風。)
(清晨从小睡醒来,到达袖口的风仿佛变了。一直用惯了的扇子扇来的风,已然是初秋的凉风。)
——从夏转秋的风之感。
秋歌ー14
式子内親王「ながめわびぬ秋よりほかの宿もがな野にも山にも月やすむらん」
(月を見て物思いをするのに耐えられなくなった。秋のない宿がないものかなあ。しかし、いくら逃れても、野にも山にも物思いをさせる月は澄んでいることであろう。)
(再也无法忍受睹月思情了。没有秋天的地方,哪里都不会有吧。然而,无论逃到哪里,不论是茫茫荒野还是寂寂深山,都依然会有那诱人思愁般黄澄澄的月亮。)
——如此说来,秋月或有一种残忍的美感吧。
秋歌ー18
式子内親王「桐の葉も踏み分けがたくなりにけり必ず人を待つとなけれど」
(小径に散った桐の葉も踏み分けがたいほどになってしまった。かならずしも人の訪れを待っているわけではないのだけれど。)
(散落的梧桐叶把小径铺得密密麻麻,连路都分不开了。我也不一定在急急等待会来到访的人。)
——满满落叶把小路堵住了,若是有人来,就很不好,而实际上,「我」只是看着这光景,感叹这光景,并不一定在等人。有人或没人,路已然是这样了。这条铺满梧桐叶的小径,一下子把「我」和外界隔离开了。是无需深思的直接咏景也好,还是婉转地表达作者想要与人亲近的心情也好,和歌的前后联结给人一种新鲜的触动。
秋歌ー19
式子内親王「秋こそあれ人はたづねぬ松の戸をいくへも閉ぢよ蔦もみぢば」
(ああいまこそ秋である。秋であるけれど人は誰ひとり訪ねてこない松の戸を、幾重にも閉ざしてしまえ。美しい蔦紅葉の葉で。)
(正是秋天啊。虽是秋天却一个人也不会到访的松门,早已被美轮美奂的青藤红叶层层叠叠地覆盖住了。
——本是寂寥的松门,到了秋天,看它被红叶重重覆盖住,更不会有人知道它了,寂寥感更深一层。若是读和歌原文,会很喜欢它的意蕴感。「秋こそあれ」是一层确定,到了末尾的「蔦もみぢば」又是一层确定,它们前后一致,仿佛把松门周遭的寂寥感都固定住似的。若是把「松门」喻人,就更显人的孤单寂寞了。
注:文章里的和歌及日文译文皆出自书《式子内親王》。
