村上春树-《村上さんのところ》

翻译 |《村上さんのところ》- 被动的,还是主动的

2017年3月27日

至今为止,我在村上春树的小说里面得到的几乎是触及我内心的,能鼓动我的东西,那么它们是不是全都是主动的,是不是全都是积极的,也不一定。有时候是故事里面的一些消极的事件映射出我内心的某些想法,它们也能成为修正或改变我的东西。

印象很深刻的是《1Q84》里面,青豆为逃离追捕而躲在一间公寓里,在那里,她每天坐在窗边往窗外的儿童公园的滑梯上望去,她曾看到过天吾出现在那里,而在那时候,她唯一能做的事情,就是等待,无声地等待。虽然是一个人,孤独的一个人,但是她的内心,她的等待又不完全是孤独的。村上春树描写那时候的青豆是——相信绝对的什么一定是存在的,类似于神性般的相信。每每我陷入自我怀疑或者信心不足,或者说在等待什么的时候,我的脑海里必定会浮现青豆等待的那个画面,以及村上春树安静的叙述。“相信绝对的什么一定是存在的”,这有时候就能代表很多东西。

正如他在下面提到的,主人公们面对各种事件,而做出的应对,怎么能用“被动”来完结呢, 如果仅仅看到这一面,我想说还没有把小说看透吧。


主人公の生き方は、受動的なのか、主体的なのか

主人公的生活方式,是被动的,还是主动的

質問:

兵庫県の日本海の山寺で住職をしているドイツの人です。先生の長編小説を何冊か拝読して、そのなかには極めて受動的に生きている主人公が多いというふに見受けられました。本に向かって思わず、「もっとしっかりせよ」「自分の意思がないのか」と声をあがたくなることもしばしばありました。主体的に行動しているというよりも、周りの働きかけによって動かされている彼らは、典型的な草食系日本男子と思いました。草食系は仏教にも通ずるあり方だと私は思っています。なんにせよ、「「私」というものはない」というのが仏教の大前提です。私たちがふだん「私」と思っているものは、ありとあらゆる要素に形成されているまぼろしに過ぎません。そういう意味では、「私」にあまり固執していない先生の小説の主人公たちは仏教的な世界観を生きている気もいたします。

我是在兵库县的日本海的山寺里当主持的德国人。读了好几本先生的长篇小说,在那里面能找到很多极端被动地活着的主人公。看书的时候不会想,「再顽强一点吧」「难道没有自己的意思吗」时不时也想这样大声叫喊。相比于主动地行动,根据周围的活动而行动的他们,是典型的草食系日本男生。我认为草食系也是理解佛教的方法。无论如何,「「我」是不存在的」是佛教的大前提。我们通常想的「我」,只不过是由各种要素组成的幻象而已。从某种意义上,我认为并不执著于「我」的先生的小说里的主人公是以佛教的世界观活着的。

しかし仏教では「自分のよりどころは自分のみ」とも言います。「私」を否定していながら、主体性を重要だと考えているのも仏教です。先生の小説の中では、主人公を囲んでいる協役の中に主体的にいきようとする人物もありますが、主人公自身にはそういう主体性を感じないのはなぜでしょうか。

但是佛教里也有说「比起自己到处都只是自己」。否定「我」的同时,佛教也认为主动性是重要的。先生的小说里面,虽然也有被困在协役当中而主动地生存的人,但是主人公自己为什么感受不到那种主动性呢。

先生の小説の主人公たちが読者に、「人生って、そんなにがんばらなくてもよい。あるにはこういう受動的な生き方もあるよ。世界じゅうの人々が「私」を手放して、より草食的な生き方をすれば世界はもっと平和になるたぶん」と呼びかけているのでしょうか。あるいは逆に、「世の中には右や左に流されて生きている人であふれているが、彼らは一体何をよりどころとしようとしているのか」

先生的小说的主人公们向读者呼喊「人生,不用那么努力也可以的。或者说这种被动的生活方式也是有的。世界中的人们对「我」是放手的,只要能有草食的生活方式世界大概会变得更加的平和」或者相反地,「世间充满了右或左地流动着生活的人,他们究竟以什么根据做事的呢」

という問題提起をしようとしているのでしょうか。

要不要谈及这种问题呢

先生で自身は主体性について、どうお考えでいらっしゃいますか。また自由意志(あるか、ないか)について、お考えをお持ちでしょうか。

先生关于自身的主动性,是怎么思考的。还有关于自由意志(有,或者没有),有考虑吗。

それとも、先生はご自身の作品についてはそんあことは一切考えず、大いなるインスピレーションのもとで書かされるままに、主人公たちと同じくらい受動的な姿勢で、内なる声に耳を傾きながらお書きになっているのでしょうか。

还是说,先生对自己的作品在那方面是一概不考虑,在强烈的灵感之下写书,以与主人公们差不多一样的被动态度,一边倾听内在的声音一边写成的?

長々とするみません。先生の小説を小難しく考えすぎているのは私だけでしょうか。

抱歉有点长。难道只有我对先生的小说有点麻烦地想太多?

回答:

欧米の読者というか、批評家の中には僕の主人公たちが受動的であると見なす人が少なくありません。でもそれはいささか一面的な見方ではないかと僕は常々考えています。

说起欧美的读者,在批评家当中有不少人觉得我的主人公们是被动的。但是我常常思考那是微小的一面的看法。

僕は彼らが受動的であると考えたことはほとんどありません。僕の小説の主人公たちの多くは、世界の流れを「既にそこに生じたもの」として観察し、捉え、その展開の中に自分たちを有効に組み込ませようと、静かに(そしてむしろ主体的に)努めているのです。世界は僕らの意志を無視したーーあるいはないものと仮定したーー決定で満ちています。たとえば極端な例ではありますが、世界貿易センタービルの事件や、福島原発の災害がもたらした圧倒的なまでの状況に対して、そこに生じた現実認識の激しい落差に対して、人がそれぞれ自分の生き方や世界観を調整し、作り替えていくことを、はたして「受動的」な態度と呼んで片付けてしまってよいものでしょうか?

我完全不认为他们是被动的。我的小说的很多主人公们,以「早已在那里产生的东西」观察,捕捉世界的流动,在那展开中自己有效地重组,安静地(不如说主动地)努力。世界无视他们的意志——或者说假定是没有的——充满确定。譬如举个极端的例子,对于世界贸易中心的事件,或者说福岛核电站爆发的灾害带来的压倒性的状况,面对在那里产生的现实认识的激烈落差,人们各自调整,改造自己的生活方式或者世界观,果真称之为「被动」的态度就能完事了吗?

それが「草食男子」的な行為なのでしょうか?世界はますますその流動性を増やしています(ますます「無常」化しつつあるというべきでしょうか)。価値は日々多様化し、テクノロジーが僕らを簡単に追い越えしていきます。僕ら一人ひとりが、そのような世界の流動に合わせて、自分を刻一刻変更させていくことを余儀なくされています。それは決して安易な作業ではありません。僕らはそのような難儀な作業をするにあたって、なんらかの新しい粋組みを必要とし、新しいロールモデルを求めています。僕が物語を通して目指しているのは、そのような粋組みやロールモデルを、僕なりに及ばずながらこしらえていくことなのです。それを「受動的」と呼ばれると、僭越かもしれませんが、少し首をひねりたくなります。

这是「草食男子」的行为吗?世界是越来越增加这种流动性(应该是越来越「无常」化进行)。价值日复一日多样化,而且我们能简单地追赶上技术。我们每个人,融合于这种世界的流动,自己不得已时时刻刻在变更着。这绝对不是简单的工作。我们做着这种困难的工作,需要某些新的改变,寻求新的技术。我通过故事而努力的是,把这种改变或者说技术,在我无法企及的同时成功地创造。如果把这称为「被动」,虽然冒昧,我百思不得其解。

主体性vs制度、悟性vs神意、あるいはロジックvsカオスといった西欧的図式こそが、現在(それこそ)いくぶんの見直しを求められているのではないかと、現今の世界情勢を見ながら、僕なりに愚考しているのですが。

主动vs制度,悟性vs神意,或者说技术vs混乱正是这些西欧的图式,现在(这样)正需要做出一些重新评估,看着现今的世界形势,这是我的看法。