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翻译|「《海辺のカフカ》-ナカタ·与星野先生一起」

2017年2月25日

Nakata(ナカタ)在故事里面该是带有什么特别的隐喻而出现的,不过故事还没看完前暂不下结论。

星野本是一位货车司机,一个偶然的机会,他与Nakata(ナカタ)一起来到高松这个地方,在与Nakata(ナカタ)经历了一些事情之后,下定决心往后要尽自己的力量去帮助Nakata(ナカタ)完成他要完成的事情,而也是这些时光,让他充分地感受到自己作为“一个人”的有觉悟般的存在,不再是以前那个只会埋头做事,也从来不知生活为何意的人。至少他在这里,在与Nakata(ナカタ)一起的时候,他意识到自己在做有价值的事情,譬如帮助Nakata(ナカタ)读字,成为他读字的得力助手。

而且,在这段慢下来的时光,除了省视自己的人生以外,他还有机会静下来听音乐。以下他对贝多芬的评价就是在他循环听了《大公三重奏》无数次之后,有感而发的。换了以前,别说音乐,别说贝多芬,连自己是谁都不清楚。

在看他们俩的故事时,总会有一种特别的感受——那就是他们互相成全。也许各自要达到的目的并不那么明晰,也不是每个目的都有说出口,但是字里行间,行文上下,读下来后,他们对话内容的转变,思维的转变,语气语调的转变,都是各自成全后得到的东西。

说一些以前绝不会说的话,做一些以前绝不会做的事,还有承诺一些以前从没有想过的事。

也许这就是生命中的境遇,在不经意间,一些事一些人,会出现,从而改变自己。


原文选自《海辺のカフカ》下卷

「ナカタ·与星野先生一起」

作曲家が耳が聞こえなくなるってのは、つまりコックが味覚を失うようなもんだ。蛙が水掻きをなくすようなもんだ。長距離トラックの運転手が免停くらうようなもんだ。誰だって目の前が真っ暗になっちまう。そうだよね?でもベートーヴェンはめげなかったね。まあそりゃ少しくらいは落ち込んだとはおもうけど、そんあ不幸には負けなかった。なんだ坂、こんな坂、ってなもんだ。それからもどんどん作曲を続け、前よりも更に深い内容を持つ立派な音楽を作り出すようになった。たいしたもんだ。たとえばさっき聞いていた「大公トリオ」だって、耳がずいぶん聞こえなくなってから作曲されたものだ。おじさんも字が読めねえってのはきっと不便だろうけど、つらいこともあるだろうけど、それがすべてじゃないんだ。たとえ字が読めなくたって、おじさんにはおじさんにしかできないことがある。そっちの方をみなくちゃいけない。たとえばほら、おじさんは石とだって話ができるじゃないか。

はい。たしかにナカタは、石さんと少しは話しができます。前は猫さんとも話しができました。

それはたぶんナカタさんにしかできねえことだ。どれだけいっぱい本を読んでも、普通の人は石や猫とは話せないものなんだ。

しかしホシノさん、ナカタはここのところよく夢に見るのです。夢の中ではナカタは字が読めます。何かの加減で字が読めるようになったのであります。ナカタはもうそれほど頭が悪くありません。ナカタは嬉しくて、図書館に参りまして、本をいっぱい読んでいます。本が読めるというのはこんなに素晴らしいことなのかと思っております。次から次へと本を読んでいきます。ところがそのとき部屋の明かりがぱっと消しました。そこで目が覚めます。たとえ夢の中でのことではありましても、字が読める、本が読めるというのは素晴らしいことであります。

作曲家听不见,就像是厨师失去味觉一样。就像青蛙失去蹼蹼一样。就像是长途卡车的司机执照停止一样。不管是谁眼前都是一片黑的。是这样吧?但是贝多芬没有畏惧。虽然是有些许的失落,但是并没有输给不幸。山坡啊,这样的坡啊,之类的。从那以后持续不断地作曲,好像比起以前能创作出具有更深层次内容的杰出的音乐。真了不起啊。譬如说刚才听到的《大公三重奏》,就是在耳朵完全听不到的时候作曲的。虽然老爷爷读不了字肯定是不方便的,或许也有艰辛的时候,但那不是全部。即便读不了字,老爷爷也有只有老爷爷才能做的事情。那方面也一定要看到。举个例子吧,老爷爷不就是能与石头说话吗。

是的。Nakata(ナカタ)确实能与石头稍微说些话。以前也能与猫说话。

这或许只有Nakata(ナカタ)先生才能做的事情。不管读多少书,普通人也是不能跟石头或者猫说话的。但是星野先生,Nakata(ナカタ)最近总是做梦。梦里面Nakata(ナカタ)是能读字的。在某些情况下好像变得能读字。Nakata(ナカタ)不再是头脑不好的人。Nakata很开心,去图书馆,然后读很多的书。我感觉到能读书是多么美好的一件事。一本接着一本书地读。但是那个时候灯一下子熄灭了,然后我就醒了。尽管只是出现在梦里面的事情,能读字,能读书也是美好的。