日文翻译

翻译 |「村上春树的51本书①」

2021年10月7日

翻译 |「村上春树-《来自我家的书架》」

接上一篇文章,之后会陆续翻译村上春树给51本书写的小感言。因内容较多,分多次更新。



01

《L’herbe des rues》、《街の草》1956
Pierre Gascar/著 篠田 浩一郎/訳

「一九三三年の夏、学業を終えて、僕はヴェルサイユの一銀行の職員としてはいった。そこでぼくは、小学校や中学校時代に嗅いでいた筆油の臭いをふたたび見出した。八月だった。ニスを塗ったカウンターのかたわら、薄闇のなかで、何人かの人が話していた。銀行は、夏の白く虚な街々に店を張る小問物屋のように、ひやりとしていた。」


1969年买的,在内页上用铅笔写了笔记。是刚进大学那会。那时候,对Gascar这位作家完全不认识,被书名(漂亮的书名)吸引而拿在手上读的,马上就喜欢上了。里面描绘了一群活奔乱跳,焦急难耐的青年在1930年的巴黎过着不明所以的生活的姿态。我记得自己有过「嗯,这种东西我懂」之类的同感。无法预料的政治混乱,一个人践行的理想和自我吹嘘,满是错误的性爱。从1960年代到70年代,我几乎也在过着类似的生活。

虽说是自传性的小说,这是Gascar在1956年,以回忆青春时代的形式写的青春小说。当中的甘美和苦涩,恰当好处地融合在一起了。


02

《Trout Fishing in America》、《アメリカの鱒釣り》1967
Richard Brautigan/著 藤本和子/訳

「子供のころ、アメリカの鱒釣りについてはじめて知った。あれはいつ、誰に聞いたのだったろう。義理の父親からではなかったか。
一九四二年の夏。
そうだ。あの酔いどれが鱒釣りのことを話してくれたのだ。かれは口がきける状態だと、さながら知性を備えた贵金属の話でもするような調子で、鱒のことを語るのだった。」


关于这本书现在已然不需要多说什么了。不过它对我而言是非常重要的书,所以放在这里。那是刚进大学后不久读的书(1960年代结束的时候),看这本书的底页总陷入沉思,倘若藤本和子翻译的,晶文社初次出版这本书是1975年(在美国出版是1967年),那么我看这本书的时间是20代后半那会。有点意外啊。我本以为是20岁前后的事。

初次读这本书时,便有种眼前猛地舒展开的美妙感觉。虽说没有感觉到「是啊,这样写也能写成小说啊」之类的东西,然而,那种感动的感觉在多年后,在我想要写小说的时候还起到一些作用。


03

《Myths to Live by》、《生きるよすがとしての神話》
Joseph Campbell/著 飛田茂雄・古川奈々子・武舎るみ/訳

「先日の昼どき、日ごろ格別ひいきにしている軽食屋のカヴンターに座っていましたが、そこに十二歳くらいの少年が学校かばんを肩にかけて入ってくるなり、私の左隣に腰掛けました。ほぼ同時に、その弟らしいおちびさんが母親の手を握って入ってきて。そのまた左の二つのいすに掛けました。親子がそろって注文をすませ、ランチが運ばれてくるのを待っているあいだ、隣の少年が少し母親のほうに頭を向けてこう言いましたーー」


这是好多次好多次拿在手上读的书。不是从开始读到最后,而是随意翻开,从适当的地方读到适当的地方。这本书对我而言就是这样的典型。不论何时翻开它都能肯定般点头「果然如此啊」。Campbell的书都富有启发性,不过若需要列举其中一本,就是这本了。Campbell认真亲切地娓娓道来一个个论点,飛田茂雄的翻译也正确易读。

人啊——不论是有意识地还是无意识地——不抱有作为共同意识的「神话」就无法自然生存。无法十全十美地延续生存下去。这对于写小说的人来说,是尤为具有重要意义的命题。神话和故事,在某种意义上是表里一体的,具有共同意味的。


04

《Jazz is》、《ジャズ・イズ》
Nat Hentoff/著 志村 正雄/訳

「ボストンの寒い冬の午後、ぼくは十六歳、街の黒人地区の<サボイ・カフェ>の前を通り過ぎようとしている。スローなブルースが渦巻くように日なたに流れ出て、ぼくを中に引っぱり込む。カウント・ベイシーが帽子を被り、少し微笑しながら、その後ろでささやいているジョー・ジョーンズのブラシとともにビートを作っている。」


直到现在,爵士仍旧被人演奏,被人聆听。新式积极的爵士也在不断出现。新的爵士就会聚集新的粉丝。不过,有谁好像说过,爵士作为真性的,纯粹意味的「神话」而存在的时代早已消失,一去不复返了。Billie Holiday、Charlie Parker、Clifford Brown、Thelonious Monk、John Coltrane……这些人也不会再在这个世界出现了。再度出现什么的,本就不是神话该有的东西。

Nat Hentoff就是这样讲述爵士的神话时代的人。John Coltrane曾说,「音乐无法表达的东西,为什么语言就能代替表达呢?」,正是如此呢。然而,音乐无法言尽的些许东西也是存在的。Nat Hentoff就把这「些许东西」列举出来,诚实谦虚地讲述。这是对爵士充满厚爱对书。

05

《樹影譚》、丸谷 才一/著

「その図書館の月曜が休みで、土曜日は五時半までだから、日曜の六時になると古参の館員たちは副館長の部屋で酒を飲んだ。土曜の六時にはじめることもあった。ときには館長も加はるし、女もまじる。酒は本屋その他からの貰ひものが多いが、それだけでは足りないから金を出し合って買ふ。肴は近くの肉屋から惣菜を買った。」


丸谷才一是不折不扣的文体家。不是「名文家」,不是「美文家」,用「才笔」这样的表述也不对,从「文豪」这个点出发看又离得太远了。最后只能说他是文体家了。让他舍弃旧假名写文章是不可能。倘若这么做了,他的文章风格就从根本上被损坏了。文体家一旦失去了风格,还能去往哪里呢。至始至终都顽固般坚守着文章的个人主义的作家,用「孤高」来形容他或许不太准确,然而这就是他的韵味所在吧。

丸谷才一虽不是多产作家,却也写了相当多的小说。当中哪本才是代表作呢,要选的话也很困难,我个人的话最喜欢这本《樹影譚》(1988年出版)。虽然是稍长的短篇小说,可文章没有无谓之处,故事很有深度。每次重读都感觉印象会有些许变化,色调变了,风景的角度变了,手感也变了。这是货真价实的名作。